ささやかな忘備録

大体舞台、大体推しの現場

「好き」を作ってくれる人へ「好き」を伝えること

私は以前こんな記事を書いた。

 

愛だけでは生きていけないー「応援する」ということに関する意見 - ささやかな忘備録appleringo.hatenablog.com

端的に云えば、クリエイターや俳優に対するお金をかけない言葉だけ、口だけの応援を「応援」と呼ぶのか?「愛」があればそれでも良いのか?ということが少し話題だった時期に、私はそうは思わない。愛だけじゃ応援対象は生きていけないから、対価を払う必要があると思っている。ということを書いた記事だ。

 

この考えは勿論変わっていないし、

最近テレビ番組の影響でハンドメイド商品に対する値下げ要求や心無い声が増加したという話を目にしてこのことを思い出したりもしていた。

でも、最近、それだけじゃ駄目なんだな、と改めて考えさせられたのがある記事との出会いだった。

 

神がジャンル移動した話

大好きな同人作家さんが、別のジャンルに移動してしまう。元ジャンルの方が沢山の人に手に取ってもらえるが、声を掛けてくれる人は少ない。移動先の方が反応を沢山もらえて活力になる。

筆者さんはいつもその作家さんにお手紙を書いていて、移動前にお手紙が支えだった、ありがとうとお礼を言われたというお話だった。

 

この記事を読んで、

チケットなり創作物なりCDなりにお金を出すことは当たり前の大前提として、

加えて、自分の「好き」を作ってくれる人、届けてくれる人にはもっとコンスタントに「好き!」と伝えていくべきだなぁと思ったのである。

私も物を作る側や演奏をしていたことがあるけど、感想とかの声をもらった時、凄く嬉しかった記憶がある。それと全く同じなのだ。

 

記事の筆者さんとは若干状況が異なるけれども、私は主にある俳優さんのファンをしていて、舞台やイベントに行く度に前回の感想や気付いた好きな点をお手紙に書いて持っていっている。

実際に全部読んでくれているのかなんて尋ねたことはないし分からないけど、お手紙を読んで嬉しくなった、元気が出たって書いていたりすることがあるから少しは活力にしてくれているのかな、と思う。

 

あと好きなイラスト作家さんが個展やイベントをする時にもなるべく積極的に足を運んで、在廊している作家さんとお話しして、直接作品の好きな所とかを好きです!って伝えたりしている。作家さんたちは「いつも本当にありがとう」、と言って見送ってくれる。

 

こう考えてみると、私は割りと「好き」を伝えている方なのかもしれない。だから、この「好き」を伝えることをこれからも止めないで、もっとコンスタントにしていきたいな、と思っている。

 

上に挙げた記事の筆者さんと同じように、今度好きな本を描いている作家さんにも本の感想のお手紙を書きたいな、と思ったのだけど、少し前に出された本だから、ツイッターでご本人に「次のイベントで前の本の感想のお手紙、持っていっても良いですか?」と尋ねてみた。

返ってきた答えはこうだった。

「そのお手紙を頂けるようにイベントまで生き抜きます!」

 

張り切ってお手紙を書いて持っていくことにした。

 

 

「量産型」は褒め言葉になったのか?

大学院の研究の関係もあって

女性ファンの文化とかを調べたりすることがあるのだけど

 

最近凄く気になるのが

「量産型ヲタク(量産型オタク)」なる存在である

 

主にドルヲタ界隈*1で使われている言葉のようであり

ネットで検索を掛けると

「私は量産型ヲタクです」といった文言のみならず「量産型ヲタクを目指しています」といった”私はそれになりたい”という意味合いの文言まで沢山ヒットするのである

見たところどうやらヲタクとしてのある一定のファッションやスタイルに関して使われている言葉らしい

 

私はこの状況を知った時凄く驚いたのである

 

何故なら私の中で「量産型」という言葉が表す意味というのは、

外部から見て同じような格好をした無個性な集団を批判したり揶揄したりする

というものだからだ

つまりどちらかといえばマイナスに使われていたイメージのある言葉なのだ*2

 

例えば数年前に流行した「量産型女子大生」なんていうのは量産型という表現が一般に浸透するきっかけの1つであり、上記のイメージをそっくりそのまま表している存在であろう

同じような茶髪の巻き髪、ベージュのトレンチやジャケット、パステルカラーの洋服…といった格好の女子大生がわんさかいて見分けがつかないことを批判して使われた言葉であったと思う

当時自分も丁度学部生だったのでよく覚えている

(現在は上であげた定型スタイルはそう多くは見掛けなくなったが代わりにパンツにスニーカー+リュックの女性が凄く増えたように感じる時期があったりと「定型」がうつろっているだけで量産型女子大生は消えていないのでは?というのも面白い着目点かと思うのだが話が逸れるのでまた別の機会に*3 )

 

まあとにかく

上記のように、ファッションやスタイルにおいて使われる「量産型」という言葉はマイナスイメージの言葉ではないかと私は考えているのである

でも、現在多数のオタクの女性たちが「量産型」に"なりたい"と言っている

 

つまり彼女たちにとっては「量産型」という言葉は褒め言葉であり、憧れの対象であり、

自らにプラスのイメージを付加させるための表現として「量産型」という言葉を使っていると考えられるだろう

 

これは非常に大きな言葉の意味の転換なのではないか?と興味深く感じているのである

 

「量産型」は褒め言葉になったのだろうか?

 

*****

ドル界隈の「量産型ヲタク」と呼ばれるスタイルはリボンを頭につけたり、ふんわりとした洋服を着ていたりと確かにパッと見て「可愛い」と感じられるものだと思う

 

個人的には人とは違う格好をして生きていきたい人間なので、彼女たちの憧れを良く理解することは出来ないのだけれど、

彼女たちの服装が「可愛い」表すものであることは事実だし、「推しの前で可愛い自分でいたい」という気持ちはどこのオタクもきっと一緒なのだろうなと思う

 

*1:主にジャニーズのファンの間で多く使われている模様 でも特徴を見てみるととうちの界隈も似た感じの子を見掛けることが良くあるなと思う

*2:元々の「量産型」という言葉はガンダムの「量産型ザク」が由来となって使われ始めた言葉らしく、試作を経て量産されるロボット等を表す言葉だったようで、イメージにプラスもマイナスも無かった模様である

*3:この量産型女子大生の変遷を上手くまとめてくれている記事を見つけて、面白かったので参考までにリンクさせて頂こうと思う

なぜ女子大生は「量産型化」してしまうのか? 元量産型の女子大生が語る、絶滅した「ガーリー型」の謎と、わたしが量産型になってしまうまで。

ご存じの方もいるかもしれないが

私は今年に入って、当該のバンドから暫く離れている

 

でも昨日スケジュールを見ながら周年は行こうかなとぼんやり考えながら、先行チケットが届いた友人たちの話を聞いていた

 

そんな矢先に起きたことだった

 

友人からの知らせで知った二人の脱退は、一瞬は驚いたけれども

至って冷静に事を受け止めている自分がいた

 

私が最近あまりライブに行きたくないなと思っていたのは、前も書いたように彼らのニーズに自分が合わなくなっている気がしたことも勿論あると思うけど、

 

本当の一番の理由は

どこか壊れていく彼らを見ていたくなかったからだったのだと思う

 

彼らは彼らなりに精一杯活動をしていたのであろうし、そんなことを言われるのは心外だろう

 

でも、私にはどこか投げやりになってきているように思えたし、取り繕っているように見えた部分もあった

無理をしているように感じた

惰性を感じてしまった

 

私は私の中の「好きだったバンド」を、「好きだったまま」にしておきたかった

 

これも今の彼らのニーズに自分が合わないだけだと言われたらそれまでなのだが

 

だから

脱退だから目一杯ライブに行く、ということを私はきっとしないし、出来ない

 

でも

前のバンドに行くのをやめた後、これからどうしようかなーと思っていたときに

私を音楽に引き止めてくれたのは彼らの音楽だし、彼のギターだし、彼らの演奏だし、彼の歌だった

 

彼らに出会ったからこそ、生の音楽を聞く楽しさを忘れられずに済んだし、色んな経験をしたし、知らない場所にも行けた、行く機会を持てた

そして色んな人に出会う切っ掛けも与えてくれた

 

悩み始めたという2年前から今までの間に活動をしてくれたからこそ

今仲良くしてくれている友人たちにも巡り会えた

縁を結んでくれたのは彼らだ

 

それに

私は純粋に彼らの作ってきた、奏でてきた音楽が大好きだ

ライブや活動が自分の追えるものから離れてしまっても

それはこれからも変わらない

ずっと聞き続けると思う

 

だから、ありがとうとさようならだけは伝えに行きたいと思う

「今なら上がれる気がする」-実行と不実行の狭間で

「今なら上がれる気がする」

恐らく、ばんぎゃるをやっている人はかなりの確率で抱いたことのある感情なんじゃないかと思う。(当社調べ)

 

その理由はそれぞれだと思うけど、周りを見ていると「何だか分からないけど物凄く「やりきった」という達成感がある」「バンドに着いていけなくなってしまった」というパターンが多い気がする。

 

私も丁度最近、うすらぼんやりそんな感情を抱いてる所だ。

私の場合は後者のパターンで、あんなに好きだったバンドなのに、まるで興味を引いて伸ばしてしまったみたいに何だか薄く感じてしまうのだ。

これは、そのバンドの内部が外から見ても少しゴタゴタしているように見えたり、何だか前までのガッツが失われてるような気がするという、バンド自体に対する不満というのも一つあると思う。

 

また、何かを素直に受容出来なくなったら自分がその対象のニーズから外れてしまったということだ、という話を聞いたことがあるが、今の私とそのバンドにはそれも一側面で当てはまると思う。

自分はずっと同じじゃないし、バンドもずっと同じじゃない。好みも変わるし、提示するものも変わる。

だから今まで何度か違うバンドを好きになって生きてきた。中には解散、脱退とか不可抗力的なものがきっかけの場合もあったけれども。

 

でも10年近い期間「ばんぎゃるであること」を捨てられそうだな、と思ったことは無かった。

それなのに、今の私は「ばんぎゃるでいることを捨てられるかもしれない」と考えているのである。

 

これは、私が舞台オタクに出戻って、離れる前より大分加速して推しの現場に足繁く通うようになったことも勿論関係していると思うし、元より多趣味な自分の質も関係していると思う。

 

でも、今まではずっとばんぎゃると平行して色んなことをしてきた。

だから単に「重きを置く趣味が変わった」だけでは片付けられない不思議な感覚が自分に残る。

何故なのか自分にも良く分からないのだ。

 

勿論、私は今でもヴィジュアル系の音楽が大好きだ。色んなバンドの曲を日々聞いている。

でも、ライブに足繁く通おうという気持ちは今は無い。CDを沢山買おうという気持ちは今は無い。私の中では今のこのスタンスは「ばんぎゃる」ではないのだ。

 

やはり私は「ばんぎゃるでいること」を捨てようとしているのだろうか?

***

しかし、例え「ばんぎゃるでいること」を捨てる=上がったとしても、その趣味に身を投じてきたことで染み付いた文化や考えは到底消える兆しが見えない。

他の界隈に足を運んでいても、この文化で培われた考えは繁く頭をよぎる。

 

ばんぎゃるは、きっと業なんだと思う。

一度踏み入れれば、完全には抜け出せない不思議な文化だと思う。

 

だから、みんな「今なら上がれる気がする」

と言いつつこの文化に身を置き続けるのであろう。

だから、一度上がった人も、また戻ってきてしまうことが良くあるのだろう。

 

実際私も「今ならばんぎゃるでいることを捨てられる気がする」とぼんやり考えながら

大好きだったバンドが突然復活したりとか限定復活したバンドがまたロックなこと考えてたりとかするから

「このライブは行きたいかも」とチケットを取ってしまったりしている。

一番好きなバンドの音楽もやっぱり好きだからまた行きたいなときっと思うんだろう。

 

頻度は減っても、完全に辞めることは出来ないのだ。やっぱり業だ。

 

結局私は、他の趣味に身を投じても、直接的には「ばんぎゃるでいること」を手放したとしても、根本的には「ばんぎゃる」であり続けるのかもしれない。

 

 

 

*ばんぎゃるはカタカナ表記(バンギャル)また略称(バンギャ)の方が多用されているかとは思いますが、自分自身の在り方にしっくり来るのが平仮名だったので平仮名表記にしています。

*他にも「業」みたいな文化ってもしかするとあるかもしれませんが、私はバンギャルしかイメージにはないのでその部分に関することだけ書きました。

 

 

愛だけでは生きていけないー「応援する」ということに関する意見

最近SNS界隈でよく目にして

気になってしまう

 

応援対象が俳優なら舞台に行かなくても、アイドルならライブやイベントに行かなくても、グッズや雑誌を買わなくても、「愛があれば」ファンだから大丈夫

 

何もお金を掛けたことはないけどファンです応援してます!とアーティストに声を掛ける人

 

え?と一瞬固まってしまう

 

考えが甘すぎる。

と思ってしまう

 

愛だけじゃあなたの大好きな応援対象は生活出来ないんだよ……

 

何も人前に立って何かをしている方たちだけではないです

何かものを生み出す方たち、書く方たち……そうした方々に対してもそう

 

誰かの生み出すものや誰かが人前に存在するということに対して

対価を支払う

という当たり前のことを理解していない人が多すぎる

 

「応援する」ということにはお金が要ることを理解してない人が多すぎる

 

先日の某アーティストさんのFCの話もそう

各界隈のクリエイターさんの賃金や報酬に関する申し立ての話もそう

 あとクリエイターさんに対して学生だからもっと商品安くしてっていう人に関しても「?」だった

 

食べ物や日用品なんかの具体的な物品を作るのと同じように

俳優さんアイドルさんクリエイターの方々も沢山色んなこと考えて苦労して力を使って様々なものを作って提供して下さってるんだよね

 

何で同じように考えられないんだろうな

不思議でたまらない

 お金を出さなくても色んなコンテンツを消費出来てしまう時代柄なのか

 

せめて自分は

大好きなあの人がこれからも素敵なお芝居や音楽、作品を作り出していけるように

心置きなくそれらを楽しめるように

お金を掛ける

 

 

記憶は無くならない

プトマヨが無くなる。

そんなニュースを耳にしました。

 

数年前にピースナウが無くなった時も悲しく思いましたが、今回は昔特にお世話になったブランドなので余計に。

 

ニュースを聞いたら当時のことを思い出したので、少し思い出として書き記しておこうかと思います。

 

高校生になった頃です。

友達とヴィジュアル系のバンドのライブに行くようになって「折角出かけるんだからお洒落しなきゃ!」と思って、色々調べてた頃です。

 

私の目を引いたのはパンクロリィタというファッションでした。

パンクほどつっぱってないけど、ロリィタにしては少々尖っている。その雰囲気がとても気に入りました。チェック柄が大好きだったのもありました。

 

そして、そのファッションを扱っているお店で有名だったのがプトマヨでした。

私はHPを見て良いなぁ着たいなぁと思っていました。

 

私の高校はバイトが基本的にダメだったので、安い買い物ではないしそんなに簡単には買えない。

少ないお小遣いを貯めたり、誕生日に買ってもらったりして少しずつ服を集めていました。

狼の女の子のプリントされたTシャツ

パンダさんのパーカー

赤いチェックのネクタイ

王冠の柄のソックス

黒のジャンパースカート

襟の大きな白いブラウス

そんな服たちを大事に大事に着ていました。

 

中々全身は揃えられないから安くて可愛いお洋服を必死で探して合わせて着ていたりもしました。

 

ただ、当時はまだこうしたジャンルで「安くそれなりに見える服」というのはあまり無くて、「安いってことはその程度」みたいな服ばかりなので、メインはブランドの服じゃなきゃダメだった。納得がいかなかったんです。

だから色々揃えられて全身コーデが出来るようになって、それを着て出掛けられるのはとっても達成感もあったし、嬉しかったです。

 

SUPER LOVERSが好きな子とラフォーレに行ったりもしました。

上から下までとっても吟味してプトマヨのチェックのワンピースを買ったこと今でも覚えています。

 

家は両親もそうしたファッションを好きでいてくれたので、お母さんと買い物に行ったりもしました。

 

そして何より、その服たちを着てライブに行けることが嬉しくて毎回何を着ようかずっと悩んでいたものです。

 

時が経って趣味が変わり、段々ロリィタやガーリー系に興味が移り、パンクロリィタは着なくなりました。

好んで着てくれる人のところに行ってほしいと手放してしまった服もあります。

 

でも、すべての始まりがパンクロリィタで、プトマヨだったという事実はずっと消えないわけです。今のセンスに引き継がれている部分もあるでしょう。

だから、今でもそれらは私の大切な思い出のファッションなんです。

 

私が欲して止まなかった

可愛い柄のニーハイソックスも

襟の大きなブラウスも

今はとても安く手に入ります。

 

そして下の世代にこうしたファッションが受け継がれなくなったことも何となく感じています。

(こうしたサイクルが薄れたのが衰退の原因かもしれませんね)

 

時代が変わってしまったのだと思います。

それはもう仕方がないのかもしれないですね。

 

いつかこのファッションを身につける人が増えて、ブランドが再開する日を夢見て。

またいつか。

 

追記

間髪容れずZipperの廃刊も発表になったようで…

スイマーも無くなってしまいますし

記憶には残るとはいえ懐かしみながらふと手に取ることも出来なくなってしまうと思うと非常に切なくなりますね。