ささやかな備忘録

いつか死ぬ日の僕のために

「プリパラ」完走ーどんなわたしでも、わたしは「わたし」!というメッセージ

先日、TOKYO MXの無印「プリパラ」再放送が最終回を迎えた。

再放送が始まった当初、丁度無印プリパラをのんびり履修したいなと思っていた私は、これはなんと絶好のタイミングと思い毎週放送を見続け、ついに140話完走した。

ある程度のキャラクターは何となく認識した状態で見始めたが、思っていた以上に個性豊かで人間味に溢れており、ただ可愛いだけでなく自分をしっかり持ったキャラクターばかりで、ストーリーも飛び道具的な監督節*1や脚本家節を効かせつつも彼女ら/彼らの個性や思想をしっかりと汲み取りながら成長や目標達成を描ききっており、飽きることなく見続けられた。

 

再放送を見始めて少し経った頃、私はこんな記事を書いている。

appleringo.hatenablog.com

「プリパラ」を見始め、キャラクターが〈なりたい自分〉像をすんなりと受け入れ、「なれる」ことを見込んだ上で、そこに近づくために努力するという〈自己肯定感の高さ〉の表現がすごく印象的で、過去に見ていた同じく〈なりたい自分になること〉がテーマの作品である「しゅごキャラ!」の自己肯定感の表現のスタートラインの差に驚いたことを書いた記事である。

 

この〈自己肯定〉〈なりたい自分になること〉は、1つのテーマとして各々のキャラクターの成長と絡めて最後まで一貫して描かれ続けており、ストーリーがかなり多方向に展開しているのに作品の根底の部分がブレていないのが本作の優れた点のひとつだと感じた。

しかし最後まで作品を視聴してみて、私が上の記事を書いた時点で考えていた以上に〈自己肯定〉のあり方について多面的な描写をもって明確に示唆・強調されていると感じた。また、わたしが「わたし」で有り続けるために〈自己肯定〉以外にも必要なことについても、一つの大きなテーマとして強く表現されていることを改めて感じたので、今回の記事ではそれらについて、作品の感想も含めてざっと書き留めておきたいと思う。

 

プリパラを見始めた頃は、らぁらが自分の大声を肯定する、そふぃがレッドフラッシュに頼らずに素の自分で活動しようと努力する等の描写を見て、そのままの自分を肯定し、「なりたい自分」も受け入れるという方向性での〈自己肯定〉が描かれている印象を受けていた。また、自己肯定だけでなく、周りの仲間たちにもそのままの自分を受け入れてもらうという意味での肯定も描かれているように感じていた。(作品を履修する以前に読んだ論評の影響もあったかもしれない。)

しかし、作品を見続けるうちに、この作品の根底にあるのはそういった意味の自己肯定だけではないな、ということに気がついた。特に強くそれを感じたのは32話「みれぃ、ぷりやめるってよ」であった。

ファルルに勝つためにパワーアップを目論み「ありのまま」になろうとするみれぃ。彼女は「ありのまま」というのは今のそのままの自分を見せることだと考えて、「作ったキャラクター」であるプリパラの「みれぃ」、そして語尾の「ぷり」を捨てようとする。それに対して彼女に憧れる雨宮は、最初は作ったキャラクターだったかもしれないが、それも含めてもう全て自分自信であること、どんなあなたであってもそれはもう「あなた」なのだと力説する。それを受けてみれぃは「ぷりのままで」夢に挑戦することを宣言する。

この流れを見て、この作品で描かれている〈自己肯定〉はそのままの自分を肯定するということだけではなく、「こんな自分も、あんな自分でも、自分なんだ!どんなわたしでもわたしは「わたし」!」ということも示しているのだな、と感じた。というか、そちらがメインのテーマであり、視聴者へのメッセージの1つであるように思った。そして、〈なりたい自分になること〉というテーマも、「どんなわたしでも「わたし」だから、どんなわたしにでもなれるんだ!」というメッセージを示しているように感じた。

そういえばそふぃも基本的には素の自分のキャラで活動しつつ、「クールなキャラも久しぶりに見たい」と親衛隊に言われて承諾してまた「クールなそふぃ」ライブをする場面があり、これも「どんなわたしも、「わたし」!」を示唆しているな、と考えた。

 

そしてその後、それらのテーマについてまた違った切り口から明確に描写されているな、と感じたのは74話「紫京院ひびきの華麗なる日常」であった。

73話でひびきが実は女性であることが明かし、世間はそのニュースで持ちきり。レオナはそんなひびきが気になり、ドロシー共に彼女が出演する舞台の稽古場へ忍び込み、何故女性であるのに男性の姿をしているのか問いかける。丁度ひびきの相手役の女優が遅れていたので、彼女はレオナに稽古の代役をしてくれるなら答えると伝える。稽古ではひびきは騎士、レオナは姫を演じ、レオナの「なぜ女なのに、そのような姿を?」を受けてひびきは台本にはない「なぜかって? 所詮、この世は、ウソとまやかし。どこに問題がある?」と答える。そして「キミは?」と問いかけるひびきに対して、レオナは「私は、あるがままです!」と叫ぶ。終わったあとのレオナはひびきと自分は似てるところもあるけど、違うところもあるようだと気づき、心が晴れた面持ちでライブへの意気込みをドロシーに語る。74話はそんなストーリーである。

この話は一見「嘘まやかしに満ちた世界を嫌い、演じることが日常」であるひびきの虚構性と「あるがまま」そのままの自分を受け入れるレオナの二項対立が描かれているように見えて、実際そんなに単純な話ではないのかな、と思った。

「あるがまま」というのは確かに「今のまま、そのまま」という意味であるが、プリパラでの「あるがまま」はやはりただそのままの自分を肯定することというより、「どんなわたしも、「わたし」!」という方向性のように思える。つまり、レオナは男の子だけど女の子の格好をしている今の姿の方が自然な自分だからそれを肯定する、ということではなくて、レオナはどんなレオナでもレオナだから、女の子の格好をしているレオナもレオナそのものなんだということを肯定するということである。

「わたしはわたし」を軸にすると、それではひびきの虚構性についてもすべてひっくるめて「ひびきそのもの」と言えるのかという話になるが、この時点の彼女は「すべてが嘘まやかし」で「演じることが日常」と述べており、後々語られる目的も含めそもそもそこに存在する"ひびき"という存在を「わたし」として認識していないような印象を受ける。そこにいるのは"紫京院ひびきが演じているなにか"であり、「どんなわたしでもわたしはわたし」という方程式が成り立たないと考えられる。だからひびきの思考に触れたレオナは「似てると思ったけど、違うところもあるみたい」と気がついたのだと思う。

そして、この時点では「わたし」を認識できていないひびきも、敗北を認めらぁらたちと和解をした後には、ふわりやファルルとの交流もあり人間らしさのある描写が増える。ややヒールな性格も男性的な振る舞いも"ひびきらしさ"として受け入れられ、ひびき自身もある種の開き直りもあり、そういった振る舞いを自分らしいものとして行っている様子が伺える。こうして「わたし」を認めたことでひびきも「どんなわたしでも「わたし」!」というテーマに漏れない存在になっていると考えられる。

 

こうしてプリパラにおいて「どんなわたしでも、わたしは「わたし」!」というメッセージは作品の根底に流れるテーマとして存在していると考えられるが、そもそもプリパラという場所自体がそれを叶えられる装置になっていると考えられる。

プリパラは、ただアイドルになれるというだけではなく、どんな姿にもなれて、どんなキャラにもなれて、どんなことを考えていても「わたし」として存在しているなら「わたし」なんだという自己肯定が出来る場所だと感じる。そして、その「わたし」の歌を世界中の「みんな」が待ってくれていて、思い切り届けることが「すべての女の子」に許されている場所でもある。*2誰だって大丈夫。あなたを待っている人が必ずいる。自分だけでなく"誰か"が必ずそれを肯定してくれる(=否定しない)、そういった存在がいることの重要性も共に描かれているように思う。その存在こそが、作中のもう一つの大きなテーマである「トモダチ」なのではないかと思う。

(プリパラという場所とトモダチという存在の関係については、87話「語尾の果て」で強く触れられている。どんなに「なりたい自分」になれたとしても「トモダチ」のいないプリパラは"乾いて冷たくて寂しい"*3場所になってしまう。)

こうした自己肯定とトモダチの関係を顕著に感じたのは真中のんの存在である。のんのトライアングルとしての活動は「わたしは「わたし」!」的だけど、アイドルとしては、やりようによっては独りよがりになってしまう危うさもあることを描き出している。それを克服したのがノンシュガーとしての姿なのかな、と思う。

 

こうした「わたしは「わたし」!」というテーマを全面に押し出して描き切るという手もあると思うけど、それだと押し付けがましさやナルシシスム的な印象が邪魔してしまう可能性があると思う。そこをコミカルな描写とともにプリパラという装置を用いて、どんな自分でも自分であり、どんな自分にもなれること(=自己肯定)とともにそれを認めてくれる存在(=トモダチ)の重要性を同時に描くことで、作品の根底のテーマとしてそれを自然に示すのがプリパラの特徴であり、魅力なのではないかと筆者は感じている。

以上が、プリパラを完走して考えたこと、感じたことである。

 

あとはもうただ個人的な感想であるが、私はプリパラを見進めるうちに黒須あろまちゃんが一番好きなキャラクターになった。初めはらぁらたちの邪魔をするちょっと嫌な悪役という印象であったが、次第に明かされる自分のキャラ作りは徹底しているので絶対に妥協しないというストイックさや、みかんのことをすごく大切に思い、時に彼女のために奔走する優しさを見て、いたずらっ子だけど努力家で友達思いであるというギャップに惹かれ、すごく好きになった。

そのため、個人的に特に思い入れのある話は104話「LOVE!デビル色!魔力があればなんでもデビル!」である。みかんとの約束を果たすために、デザイナーの夢を叶えるために、新ブランドに応募しようとするもミスで作品を提出出来なかったあろま。泣きながら寝込んだ彼女が目覚めると隣に寄り添って眠っているみかんとガァルルの姿が。それを見て、二人のために最高のデザインをしようと再起し、3人の個性を込めたコーデでライブをし、結果的に彼女のデザインは新ブランドとして認められる。自分らしく、そして、大事な「トモダチ」のために、夢を叶えた彼女を見て思わず泣いてしまうなどした。彼女もまたプリパラらしい存在の一人だな、と思う。(その後の106話もガァルマゲドン好きとしては胸が熱くなる展開であった。)

 

現在はアイドルタイムプリパラの再放送が始まっているので、これもまた毎週楽しく見ている。私が直接興味を持った切っ掛けであるWITHの登場回も順を追って見られるのが楽しみである。*4

そして、若干話が飛んでしまうのは承知で新作の「アイドルランドプリパラ」も視聴中である。こちらは、アプリゲームが主軸ということで、対象年齢が上がるのを「エラーで人々がプリパラを忘れてしまった世界で」「かつてプリパラアイドルだった女の子を主役にして、プリパラを思い出してもらって再度アイドルになってもらう」という設定で補完するのが上手いな~と思った。(「プリパラを忘れてしまった、かつてプリパラアイドルだった女の子」は「小さい頃プリパラが好きだったけど、成長して今は忘れてしまったこの世界の女の子たち」に重なるわけで)

3話の先行上映をすっかり忘れており見逃してしまったのもあり、実は折角なので先日の池袋HUMAXシネマズで開催されたアドパラ上映会に行ってきた。あまりちゃんの歌と衣装がすごく好きなので、カオティック・ハリケーンを映画館の大画面で見られたのは本当に嬉しかったし、マリオのパフォーマンスがカッコ良すぎて痺れてしまった。ロックだ…。

そして森脇監督と大庭さんの、「プリパラの世界では不思議なことも不思議とは思わない。気づいたらすべて受け入れている。」という言葉を聞き、こういう思想が「どんなわたしでもわたしは「わたし」!」そしてその「わたしを受け入れてくれる誰か(=トモダチ)が必ずいる!」というテーマを生んでいるのだな、と改めて思ったりもした。

 

今回他にも色々書きたいことがあったが長くなってしまって端折った部分もあり、

今度別の記事で告知予定だけれど11月の第35回文学フリマ東京に出展を予定しているので、(メインで頒布予定なのは他の本だけど)可能であれば加筆修正したプリパラ感想考察本を出すかもしれないです。また改めて告知します。

*1:筆者は「おねがいマイメロディ」が世代である。

*2:みれぃが87話で記憶を取り戻したときにらぁらにまっすぐに伝える言葉が「みんなはアイドルの歌を待っているぷり。世界中に向かって届くように、思いっ切り歌うぷり! ここでは、すべての女の子に、それが許されているぷり!」である。

*3:唯一「トモダチ」を覚えていたらぁらが「トモダチ」を忘れたみんなのことを見て言った言葉の1つ。

*4:登場回だけ数話見たことがあるが、やはり通して見たいので