ささやかな備忘録

いつか死ぬ日の僕のために

いつか「古い物語」になる日が来るようにー「彼等のワンピース」感想

最近大好きな漫画のスピンオフ小説が発売されて、丁度先程読み終えた。それがあまりにもすごくすごく良かったので、忘れないうちに感想、書いておきたすぎる…と思って急に記事を書いている。(休みの日で良かった)

そもそも普段読むのが研究書とかそれに準ずるものばかりで小説を読むの自体が結構久しぶりだったんだけど、たまには文芸で物語を摂取するのも大事だな…と思ったりした。(文学修士なのに表象文化でもイメージ系の専攻なので文芸に全く強くないという…)

 

漫画はこちらの記事で紹介している山田睦月先生作画・菅野彰先生原作の「ぼくのワンピース」という作品。

appleringo.hatenablog.com

この作品のスピンオフとして原作の菅野先生によって書かれたのが「彼等のワンピース」という小説である。挿絵はもちろん山田先生。

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初めの2篇は小説Wingsに掲載されたもので、母が小説Wingsの雑誌を購読していたので掲載されているのは聞いていたんだけど実家にあるから中々読むタイミングがなくて、今回単行本化のタイミングですべて初めて読むことになった。

菅野先生の作品は昔「HARD LUCK」を少し読んでいたことがあるけど、かなり久しぶりに読んだ。(あ、漫画版のSSは読んだか)

 

物語は漫画版で描かれた主人公・神鳥谷等の"親友"・佐原真人が亡くなった数年後の話なので、直接漫画版の続きの世界の物語ではあるのだけど、単にキャラクターのその後生きている様子を描いているというよりも、1つの物語としてすごく完成されていて、メッセージ性が高くて、そこがす~ごく良いなと思った。

舞台となるのは等と真人が教師として中高一貫校で、彼等のほか二人の教え子である羽瑠、來大という二人の人物が中心となっている。読み進めていったら2篇目は教え子の羽瑠が主人公となっており、驚いた。でも、彼の目線からの語りが入ることで、この物語にあるメッセージにより深みを感じられるな、と思った。

 

子供の頃からずっときれいなワンピースが着たくて仕方がなく、人と違うこと、自分が何者なのかわからないことに苦しみ続けていた等に、人は人、自分は自分で良いと伝え、姉のワンピースを彼に着せてくれた真人。少しずつ自分について考えながら真人と親友になった等だが、真人は実は心臓の病気を抱えており、最後まで自分の生き方を貫いて亡くなっていく。彼の遺言を基にした華やかなパーティーのようなお別れ会を終え、等は真人に言われた通り絶対に泣かず、真人がくれた力を信じてまだ人と違うことは怖いけど、自分を否定しないと決めて生きていくと決める。これが漫画版の物語である。

 

「彼等のワンピース」では等と苫人が生徒との事件に巻き込まれたり、佐原家との交流を通して、真人との過去を思い返しながら自分の生き方について考えていくのだけど、特に等と苫人の細かな会話の描写によって真人が二人に遺した思いや心の欠片、そして"彼がいない"という喪失感が良くも悪くも彼等の中で大きく作用し、彼等を動かしていることがよくわかるな、と思った。本当に何気ない会話まで細かく描写されているのだけど、それが蛇足にならず、"真人"の遺した欠片を今の自分の考えや行動に落とし込んで、少しずつでも前に進む二人の姿を自然に描き出すポイントとなっていると思う。

苫人は真人の死の記憶から、追いかけ回してくる女子生徒・由麻を突き放せず事件に巻き込まれるし、等は苫人に対し自分の無力さを感じ、真人のいない喪失感に、まだ歩き出せない"迷子"であることを自覚する。残されるってこういうことなんだろうな、と思った。特に等が真人と同じものを見て同じ言葉使ったはずなのに、その意味が全く違ったかもしれないことに気付き、それを確かめられないことを嘆くのは、読んでいてすごくつらかった。

でも、それを受けて苫人の絡んでいる事件も使う人によって使う言葉が大きく違うことが関係していることに気付き、相手を尊重しながらも苫人を助ける。また、自分の行動や佐原家との交流を通して、自分と真人の考えていた"意味"が違っても真人は真人だし、彼がくれた自分を否定しない力を身に付けて、他人さえも否定しない自分になることで前に進めていることを自覚する。この様子は上に書いたつらさと対比的で、非常に前向きな姿勢である。

喪失感は、あっていい。それが残された者の定めだから。でもそれよりもっと彼のくれた物の方が大きいから、前を向けるのだな、と強く感じた。

 

また、由麻に追いかけ回される苫人を守るため、等は彼女に自分が苫人の恋人であると嘘を付くのだけど、その伝え方に配慮があって素晴らしい。僕がなんで君の邪魔をするかわかる?と問いかけて、どうして?と返してくる彼女に対して僕のプライバシーだから話したくないし、想像を人に話したらアウティングになるから許されないんだと諭す。嘘を付くにしてもセクシャリティについてすごく慎重に気を使う等にはすごく好感が持てるな~と思う。結局由麻は何もわからずそのことを言いふらしてしまうのだけど、それがどういうことなのか理解が及ばない人もいるというやるせなさも、きちんと描写されているのがまた…。

 

2篇目の「理性の王国」は、主人公の羽瑠と、ある切っ掛けで彼と関わりを持つ來大の物語である。等と苫人も元担任として、部活の顧問として登場する。

理性的な思考を重んじ言葉を紡ぐのが得意で、他人と関わらないために"感情"がわからない羽瑠と、芸術家気質で言葉を紡ぐのがあまり得意ではなく、感情を抑えきれないタイプの來大。理性/感情で対比される二人は何もなければまず関わることがないはずだったが、來大の"感情"によって起こる事件によって羽瑠は彼と知り合う。これで來大がただ感情的な人間であれば羽瑠も気にも留めないだろうけど、來大はすごく誠実なので羽瑠も対話を許すことで話は始まる。この二人の会話では、羽瑠は知的さによって、來大は素朴さによって紡ぐ言葉が、二人の正反対の気質をよく表しているのに妙に噛み合っていて、ユーモラスなのが面白い。二人の歩み寄り(というかほぼ羽瑠の歩み寄り)が読んでいてよくわかるのだけど、高校生らしくなかった羽瑠が高校生らしく友人を得ていく様は言葉に出来ない良さがある。

最終的に來大の"感情"によって起こるいくつかの事件に、羽瑠は巻き込まれる。彼の友人として理性を活かして事件を解決に導こうとする羽瑠だけど、來大が様々な意思を持って拒んだり、逆に熱を持って受け入れたりして、羽瑠はそれに苛立ったり嬉しさを覚えていることが自然に描かれるのだけど、これってつまり彼が知らなかったはずの感情を表にしているということで、この流れをごく自然に読者にも羽瑠にも気づかせるのがすごいな、と思った。そしてこの感情が湧いてくるのは來大が"親友"だからこそのものだということも自然と気づかせる。

「理性の王国」でも等がついた嘘が未だ根強く残っており、それについて茶化す生徒たちが描かれるシーンがある。この侮辱に激怒するのは意外にも苫人を追いかけ回していた由麻であった。思ったより大事になったことで、等がワンピースを着て全校生徒の前で話をするのだけど、ここでも等は自分のセクシャリティについて真実は話したくないから話さないし、謝る必要はないから謝らないという態度を取るのが良いな~と思った。自分のためだけでなく、同様の思いを抱えている人がいるかもしれないという配慮をきちんと出来る等は真人から受け取った「自分も他人も否定しない」をきちんと実践している。

続けて等が話す暴力や侮辱はいけないけど、どうして起きてしまうのか、それは感情を言葉にできないという理由があるのだろう、だから言語化出来るようにしていきましょうという言葉は、來大の在り方にも繋がっていくし、物語として大きなメッセージでもある箇所だな、と思った。言葉にするのって本当に難しいけれど、上手く伝えられることが増えれば、解決することもあるだろうし、納得は出来なくても理解は出来ることも沢山あるということを改めて考えた。等の話にも感動した人、つまらなそうな人、否定的な人など様々な人がいるだろうという描写がされているが、様々な考えの人がいるからこそすべてわかり合うのは多分無理で、でも上手く言語化出来れば理解して互いに尊重することは出来る、ということなのかな、と考えていた。ただし、ただ言葉を上手く使うだけでは生き生きとは生きられない、そこには感情が介在するからこそ言葉で表そうとするのだということも羽瑠が感情を知っていくことで伝えているのかな、と思う。

等と苫人は謝罪をする由麻が自分の過ちについて考え続けているとは思わず、それについてすごく尊いことだと考える。誰しも間違いはあるけど彼女のように自らそれを正せる人ばかりではないと思うので、現実はそう上手くはいかないとは思うけど、(自分ももしかしたら知らないうちに過ちを犯している可能性もあるし…)みんながこのように出来たら世界は少しずつ変わるのだろうか、なんて考えてしまったりした。

「理性の王国」を読み始めたときは何故彼等が中心なのだろう、と考えたりしたのだけど、最後まで読んだら、彼等は"親友"として互いを変える存在になっていって、尚且等が「君たちは、人と違うことを恐れないんだね」と声をかけるように等と真人とは違った形でその関係を築いている。等は自分が迷子だったことを悔いてはいないけど、きっと他にも友と前に進む形はあると思っていて、その形の1つが羽瑠と來大だったのかな、と思った。

 

最後の「ワンピース」はより数年後の等の物語だが、私が考えていたことを昇華してくれた短編だった。

というのも、等は(苫人もだが)勿論真人にもらった力を糧にして前を向いて歩いていくことが出来たのだとは思うけど、これから永遠に真人に囚われていくというのはどうなんだろう…と思ったのである。等の人生は等が等として歩むべきではないかと思ったからである。この篇では真人のいない時間を生きていくことを考える等の姿が描かれていて、1つの回答を提示してくれていてスッキリしたし、良い意味で「変わった」等の姿が見られて嬉しかった。

 

感想の中でも述べてきたけど、この物語はジェンダーセクシャリティ、一人ひとりのアイデンティティについてかなり慎重に描かれていると思うのだけど、それはあくまで話の一片で、軸は等が漫画版の真人との日々を受け止め直して「自分はこうなんだ」と認められるところにある、という描き方が本当に好きだな、と思う。途中に由麻や、羽瑠・來大の物語があることで様々な人がいるということも自然に伝えながら、すべての人とわかり合うことは出来ないかもしれない、でも自分は自分である。そして、それを尊重し合うために否定ではなく理解をすることが必要なんだということを伝えてくれている物語なのかな、と思っている。それは、今の社会にとってすごく大切なメッセージであるように思う。

 

菅野先生は漫画版の原稿を書き終えた時にこのように考えたとあとがきで述べている。

「いつか古い物語だと言われることになるだろうけど、それを恐れまい」

なんて素敵な覚悟なんだろうかと思った。

まだ世界はそこまで上手くは進んでいないと思うけど、私もこの物語が古い物語になる世界がいつか来たら良いな、と思うし、そこへ向かうための1歩としてこの作品はすごくすごく大切な作品だと考えている。

 

↓物凄く丁度良いお題表示されてた

今週のお題「最近おもしろかった本」