「今なら上がれる気がする」
恐らく、ばんぎゃるをやっている人はかなりの確率で抱いたことのある感情なんじゃないかと思う。(当社調べ)
その理由はそれぞれだと思うけど、周りを見ていると「何だか分からないけど物凄く「やりきった」という達成感がある」「バンドに着いていけなくなってしまった」というパターンが多い気がする。
私も丁度最近、うすらぼんやりそんな感情を抱いてる所だ。
私の場合は後者のパターンで、あんなに好きだったバンドなのに、まるで興味を引いて伸ばしてしまったみたいに何だか薄く感じてしまうのだ。
これは、そのバンドの内部が外から見ても少しゴタゴタしているように見えたり、何だか前までのガッツが失われてるような気がするという、バンド自体に対する不満というのも一つあると思う。
また、何かを素直に受容出来なくなったら自分がその対象のニーズから外れてしまったということだ、という話を聞いたことがあるが、今の私とそのバンドにはそれも一側面で当てはまると思う。
自分はずっと同じじゃないし、バンドもずっと同じじゃない。好みも変わるし、提示するものも変わる。
だから今まで何度か違うバンドを好きになって生きてきた。中には解散、脱退とか不可抗力的なものがきっかけの場合もあったけれども。
でも10年近い期間「ばんぎゃるであること」を捨てられそうだな、と思ったことは無かった。
それなのに、今の私は「ばんぎゃるでいることを捨てられるかもしれない」と考えているのである。
これは、私が舞台オタクに出戻って、離れる前より大分加速して推しの現場に足繁く通うようになったことも勿論関係していると思うし、元より多趣味な自分の質も関係していると思う。
でも、今まではずっとばんぎゃると平行して色んなことをしてきた。
だから単に「重きを置く趣味が変わった」だけでは片付けられない不思議な感覚が自分に残る。
何故なのか自分にも良く分からないのだ。
勿論、私は今でもヴィジュアル系の音楽が大好きだ。色んなバンドの曲を日々聞いている。
でも、ライブに足繁く通おうという気持ちは今は無い。CDを沢山買おうという気持ちは今は無い。私の中では今のこのスタンスは「ばんぎゃる」ではないのだ。
やはり私は「ばんぎゃるでいること」を捨てようとしているのだろうか?
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しかし、例え「ばんぎゃるでいること」を捨てる=上がったとしても、その趣味に身を投じてきたことで染み付いた文化や考えは到底消える兆しが見えない。
他の界隈に足を運んでいても、この文化で培われた考えは繁く頭をよぎる。
ばんぎゃるは、きっと業なんだと思う。
一度踏み入れれば、完全には抜け出せない不思議な文化だと思う。
だから、みんな「今なら上がれる気がする」
と言いつつこの文化に身を置き続けるのであろう。
だから、一度上がった人も、また戻ってきてしまうことが良くあるのだろう。
実際私も「今ならばんぎゃるでいることを捨てられる気がする」とぼんやり考えながら
大好きだったバンドが突然復活したりとか限定復活したバンドがまたロックなこと考えてたりとかするから
「このライブは行きたいかも」とチケットを取ってしまったりしている。
一番好きなバンドの音楽もやっぱり好きだからまた行きたいなときっと思うんだろう。
頻度は減っても、完全に辞めることは出来ないのだ。やっぱり業だ。
結局私は、他の趣味に身を投じても、直接的には「ばんぎゃるでいること」を手放したとしても、根本的には「ばんぎゃる」であり続けるのかもしれない。
*ばんぎゃるはカタカナ表記(バンギャル)また略称(バンギャ)の方が多用されているかとは思いますが、自分自身の在り方にしっくり来るのが平仮名だったので平仮名表記にしています。
*他にも「業」みたいな文化ってもしかするとあるかもしれませんが、私はバンギャルしかイメージにはないのでその部分に関することだけ書きました。