ささやかな備忘録

いつか死ぬ日の僕のために

文学フリマ東京35 ありがとうございました。(+自家通販のお知らせ)

昨日11月20日、「文学フリマ東京35」に出展いたしました。

告知の通り「量産型」という言葉の変遷と、「量産型オタクファッション」・それを身にまとう女性たちのカルチャーを研究した、

「「量産型」のゆくえ-「量産型女子」から褒め言葉としての「量産型オタク」へ」

を頒布させていただきました。

 

ブースにお立ち寄りいただいた皆様、

本をお手に取っていただきました皆様、誠にありがとうございました!

 

Twitterで事前に告知は行っていたとはいえ

初出展・知名度ゼロの状態であったため、10部売れたら良い方だな~と思いながら出展させていただきましたが、3倍以上の冊数をご購入いただき大変驚いております。

事前にチェックしてくださったのかな?という方のほか、

ブース前で足を止めて、見本誌の中身を読んでから購入してくださった方がかなり沢山いらして、とても嬉しく思いました!

差し入れを持って遊びに来てくれたお友達も本当にありがとうございました!

 

見本誌を読んでくださっている方などにどの程度話しかけて良いものかわからず

こちらから話しかけることはほとんど出来なかったのですが、

「病みカワ」文化が過ぎ去り、量産型やメンヘラ文化のゆくえについて気になっているとお話いただいたり、

仕事をしながら執筆をしていることについてお褒めいただいたり笑、

中身が論文の体裁になっていることに驚いて話しかけていただいたりと、

色々話しかけていただいて、とても嬉しかったです。

直接自分の分析していることや研究していることについてお話ができることは中々ないので、とても良い経験となりました。

イベント終了後も文フリでの購入品紹介や買った本タグで写真をあげていただいている方をちらほら見掛けてまた嬉しく思いました。

 

当日は夕方用事があり早めに撤退する必要があったので、

他の方のブースをほとんど回ることが出来なかったのが心残りです。

お隣の出店者様の気になっていた本は購入させていただけたほか、

Twitterで見て気になっていた本を出品されている方が丁度当ブースにお立ち寄りくださり、回る時間がなく無念…というお話をしていたらブースまで本を届けてくださり購入する事ができました!(わざわざ本当にありがとうございました…!)

今度は参加者としてブースを巡りに行きたいと思っています。

 

今回は10月に原稿を書き始めて、仕事帰りや休日にちまちま書いていたのですが、

途中推しの舞台に全通したりしていたら思ったより時間がなく焦りましたが、(全て自分が悪い)

ずっとあたためていたテーマをまさに今!ファン・カルチャーとして流行している中で

形のある本としてまとめることが出来て本当に良かったな~~と思いました。

書きたいテーマは他にもあるので、大変ではありますが、文献などを読み込んでまた本を作りたいなと思っています。

また、準備にあまり時間がなく、小さなポップ1つしか立てられなかったため、お立ち寄りいただいた方々にブースの場所が分かりづらい・読みづらいという思いをさせてしまった可能性がありました。次回以降は大きく分かりやすいポップを作成していきたいと思います…。

 

さて、イベント後にBoothで通販を行いますと事前に告知をしていましたが、

上記の通り刷った分ほとんど捌けてしまい、

取り置きをお願いされていた分を除くと残部が2~3冊となってしまいました。

在庫が僅かで恐縮ですが、もしご希望の方がいらっしゃいましたら

下記URLよりご購入ください。(送料手数料分やや割高で恐縮です。)

asmallmemorandum.booth.pm

★12/3追記

残部の3冊があっという間に完売してしまったので、現在増刷分を販売中です。あと数冊在庫がございますので、ご希望がございましたら上記URLよりどうぞ~

 

最後に、ネットでは裏表紙をアップしていなかったので、折角なのでここで描かれているものと共に紹介したいと思います。

特に触れていませんでしたが、表紙のイラストも筆者作です。

「量産型といえばなもの」を散りばめていたのですが、

途中で描くものがなくなったので文中に登場した量産型ザクを描いておきました。

ツイッターで一笑いしてくださった方を見掛けたので良かったです。笑

印刷所に注文をするのも初めてだったのですが、絶対に表紙をクリアPPコートにしたくてセットに含まれていたトム出版さんにお願いしたのですが、綺麗に早く仕上げていただき感謝です…!

 

以上、再度とはなりますが、本当にありがとうございました!

また出展した際にはよろしくお願いいたします!

 

 

本の感想などございましたら是非下記まで↓

グーグルフォーム

docs.google.com

マシュマロ

marshmallow-qa.com

文学フリマ東京35 お品書き・サンプル(「量産型」のゆくえ-「量産型女子」から褒め言葉としての「量産型オタク」へ)

出展予定の文学フリマ東京35の開催まで1週間となりました。

Twitterの方では数回ツイートしましたが、ようやく入稿完了したのでブログでも告知させていただこうと思います。

 

スペース:T-04

スペース名:ささやかな備忘録 出張版

webカタログ↓

https://c.bunfree.net/c/tokyo35/h1/T/4

【お品書き】

・「「量産型」のゆくえ-「量産型女子」から褒め言葉としての「量産型オタク」へ」

(A5 / 28ページ / 400円)

以前から制作しますと告知していた本をようやく頒布できます。

4年ほど前に女性のファン・カルチャーについて研究していた私が、以前はネガテイブな意味で使用されていた「量産型」という言葉が、「量産型オタク」という存在の台頭によって〝憧れ〟を示す言葉に変化しているという事実に非常に衝撃を受けて、それをどうにか言葉に残しておきたくて書いたのが「「量産型」は褒め言葉になったのか?」という記事でした。

この記事には思ったよりも反響があり、この興味深い文化事象についてじっくり分析して論じてみたという気持ちが湧いてきて制作を決めたのがこの本です。ポップ・カルチャーの流れの中でもしかしたら大きなムーブメントになる可能性があるこの言葉やファションについて真剣に分析することは結構重要なのではないかと考えたこともあります。

 

基本的には「量産型オタク」という言葉の表す意味について、また「量産型オタクファッション」や、それに身にまとう女性たちの在り方や、内包される文化がいかなるものであるのかという点に焦点を当てて、様々な切り口で論じています。また、そこに関連するものとして「地雷系ファッション」「ロリィタ・ファッション」についても一部触れている箇所があります。あと、現在は量産型・地雷系ファッションのブランドとなっている「Ank Rouge」「MAR*S」などの「元」ギャルファッションブランドについても触れています

当初はエッセイっぽいものにする予定だったのですが、参考文献を読み込んで書いていたら少し論文寄りのものなりました。といっても、そんなに堅苦しいものではないので、ご興味があればお手にとっていただけましたら嬉しいです。

 

章立ては以下の通りです。

1.「量産型」は褒め言葉になったのか?

2.「量産型」は誰のためのものか?

3.自己表現としての「量産型」

4.共同体としての「量産型」

5.「量産型」へ変貌したブランドたち―ギャルブランドの生存戦略

6.「量産型」と「地雷系」―新時代の〈ネオ・カワイイ〉

Extra.「ロリィタ」と「量産型」

 

↓Sample

 

 

 

★当日の諸注意★

・当日は15時半頃に撤退予定です。恐縮ですが、お求めの場合は早めにお越しいただくようお願いいたします。

・イベント開始直後の高額紙幣の使用はお控えいただきますようお願いいたします。

・以前時間があれば作るかも…と記載していたプリパラ本は今回少し厳しそうなので、上記の本のみ頒布します。

 

また、出展後はBoothで自家通販を行う予定です。

もし当日会場へ足を運べない方でご希望の方がいらっしゃいましたら、是非通販をご利用ください。

 

当日はよろしくお願いいたします!

そんなことあるんだという話

推しの舞台期間が終わり(それについてはまた今度書く)、現場の期間に開けられていなかった荷物などを確認していた。

その中にサイステ(ドラマチックライブステージ「アイドルマスターsideM」)の舞台楽曲CDがあった。発表があった当初から推しがギター持ってる役…やる…と個人的にザワザワして、実際公演が始まったら推しが本気で当て振りの楽器パフォーマンスをしてくれていてもうそれだけで胸がいっぱいだった公演である。しかも推しは元気で可愛いし、めちゃめちゃ楽しかった。

 

appleringo.hatenablog.com

 

6月に公演があって、10月にCDが出るスピード感めちゃめちゃありがたいなと思う。

どのグループの楽曲もとても良かったのでフルで聞けるのをとても楽しみにしていた。

High×Jokerの「LET'S GO ALL THE WAY!」、青春!感が強くて本当に良い。

LET'S GO ALL THE WAY!

LET'S GO ALL THE WAY!

  • provided courtesy of iTunes

music.apple.com

 

事前に作詞・作曲・編曲者情報はパンフレット等でも発表されていたので、公演中も豪華だな~と思いつつ銀河劇場でパフォーマンスされる楽曲を聞いていた。C.FIRSTの「Don't U Worry」聞くとなんか無性にGolden Recordの「Love Holic」聞きたくなるんだよな~と思っていたら作曲が同じ早川さんだったりもした。お洒落楽曲。

Love Holic

Love Holic

  • Golden Record 風乃リツ(CV.梶原岳人) 朝波ナナセ(CV.広瀬裕也) 太刀川ダイキ(CV.矢野奨吾)
  • アニメ
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

music.apple.com

しかし楽曲のレコーディングを担当したスタジオミュージシャンについてはHPなどにも掲載されていなかったので(まあ大抵の場合はそう)CDのブックレットのクレジットを見て知ることになったのだけど、ハイジョの楽曲のクレジットを見て大げさでなく心臓が止まるかと思った。

推しがパフォーマンスを担当していたギターのパートを弾いていたのは、昔私が大好きだったバンドでギターを弾いていた、大好きだったギタリストだった。

 

バンドが解散してからその人・ミヤジマジュンさんは、サポートミュージシャンやアイドル・舞台などの楽曲プロデュースをしていて、あらいふとしさんと一緒に界隈の舞台の劇伴や楽曲のプロデュースも良くやっているので(有名なのは青春鉄道かな)いつか推しが出てる舞台の楽曲も担当してくれたら嬉しいな~と思っていた。でもそんな…自分の推しが担当しているパートを…弾いてるというのは…流石に…予想外で…。寝ようと思ってたのに一人でクソデカボイスでええ!?と呟いてしまった。

もしかしなくても、推しは、この人のギターの音に合わせて当て振りのパフォーマンスをしていたのか…私は…この人のギターに当て振りする推しを…見ていたということなのか…と気がついてしまい、むりむり…そんなの泣いちゃうじゃん…と驚きと嬉しさでリアルに大号泣していた。Aメロで刻んでいるあの音も…推しが歌っていたパートで鳴っているギターも…推しが最高のパフォーマンスをしていたあのギターソロも……ですか…そう…。これから寝るところだったというのに…。

 

実はハイジョのこと見ながら良く思い出していたのが「I sing for you」のMVだったので…なんかもう…流石にこの気持を言葉にすることが出来ない…。(BGM:春に(作詞・谷川俊太郎

www.youtube.com(左の黒髪がジュンさんです)

 

全く関係ない界隈で好きだった人や物事が繋がるの本当に人生のバグだなと思うけど、意外とそういうことって少なくなくて、いつも本当に不思議な気持ちになる。人生おもしれ~

 

ありがとう隼人くんのキャストに推しを起用してくれた誰か

ありがとう「LET'S GO ALL THE WAY!」の演奏を淳ちゃんに依頼してくれた誰か

ありがとう推し、ありがとう淳ちゃん

 

追記

推しの接触でその話をしたら、驚いたあとにしみじみと「運命だ……」って言っててめっちゃ良かった。

運命……

 

いつか「古い物語」になる日が来るようにー「彼等のワンピース」感想

最近大好きな漫画のスピンオフ小説が発売されて、丁度先程読み終えた。それがあまりにもすごくすごく良かったので、忘れないうちに感想、書いておきたすぎる…と思って急に記事を書いている。(休みの日で良かった)

そもそも普段読むのが研究書とかそれに準ずるものばかりで小説を読むの自体が結構久しぶりだったんだけど、たまには文芸で物語を摂取するのも大事だな…と思ったりした。(文学修士なのに表象文化でもイメージ系の専攻なので文芸に全く強くないという…)

 

漫画はこちらの記事で紹介している山田睦月先生作画・菅野彰先生原作の「ぼくのワンピース」という作品。

appleringo.hatenablog.com

この作品のスピンオフとして原作の菅野先生によって書かれたのが「彼等のワンピース」という小説である。挿絵はもちろん山田先生。

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初めの2篇は小説Wingsに掲載されたもので、母が小説Wingsの雑誌を購読していたので掲載されているのは聞いていたんだけど実家にあるから中々読むタイミングがなくて、今回単行本化のタイミングですべて初めて読むことになった。

菅野先生の作品は昔「HARD LUCK」を少し読んでいたことがあるけど、かなり久しぶりに読んだ。(あ、漫画版のSSは読んだか)

 

物語は漫画版で描かれた主人公・神鳥谷等の"親友"・佐原真人が亡くなった数年後の話なので、直接漫画版の続きの世界の物語ではあるのだけど、単にキャラクターのその後生きている様子を描いているというよりも、1つの物語としてすごく完成されていて、メッセージ性が高くて、そこがす~ごく良いなと思った。

舞台となるのは等と真人が教師として中高一貫校で、彼等のほか二人の教え子である羽瑠、來大という二人の人物が中心となっている。読み進めていったら2篇目は教え子の羽瑠が主人公となっており、驚いた。でも、彼の目線からの語りが入ることで、この物語にあるメッセージにより深みを感じられるな、と思った。

 

子供の頃からずっときれいなワンピースが着たくて仕方がなく、人と違うこと、自分が何者なのかわからないことに苦しみ続けていた等に、人は人、自分は自分で良いと伝え、姉のワンピースを彼に着せてくれた真人。少しずつ自分について考えながら真人と親友になった等だが、真人は実は心臓の病気を抱えており、最後まで自分の生き方を貫いて亡くなっていく。彼の遺言を基にした華やかなパーティーのようなお別れ会を終え、等は真人に言われた通り絶対に泣かず、真人がくれた力を信じてまだ人と違うことは怖いけど、自分を否定しないと決めて生きていくと決める。これが漫画版の物語である。

 

「彼等のワンピース」では等と苫人が生徒との事件に巻き込まれたり、佐原家との交流を通して、真人との過去を思い返しながら自分の生き方について考えていくのだけど、特に等と苫人の細かな会話の描写によって真人が二人に遺した思いや心の欠片、そして"彼がいない"という喪失感が良くも悪くも彼等の中で大きく作用し、彼等を動かしていることがよくわかるな、と思った。本当に何気ない会話まで細かく描写されているのだけど、それが蛇足にならず、"真人"の遺した欠片を今の自分の考えや行動に落とし込んで、少しずつでも前に進む二人の姿を自然に描き出すポイントとなっていると思う。

苫人は真人の死の記憶から、追いかけ回してくる女子生徒・由麻を突き放せず事件に巻き込まれるし、等は苫人に対し自分の無力さを感じ、真人のいない喪失感に、まだ歩き出せない"迷子"であることを自覚する。残されるってこういうことなんだろうな、と思った。特に等が真人と同じものを見て同じ言葉使ったはずなのに、その意味が全く違ったかもしれないことに気付き、それを確かめられないことを嘆くのは、読んでいてすごくつらかった。

でも、それを受けて苫人の絡んでいる事件も使う人によって使う言葉が大きく違うことが関係していることに気付き、相手を尊重しながらも苫人を助ける。また、自分の行動や佐原家との交流を通して、自分と真人の考えていた"意味"が違っても真人は真人だし、彼がくれた自分を否定しない力を身に付けて、他人さえも否定しない自分になることで前に進めていることを自覚する。この様子は上に書いたつらさと対比的で、非常に前向きな姿勢である。

喪失感は、あっていい。それが残された者の定めだから。でもそれよりもっと彼のくれた物の方が大きいから、前を向けるのだな、と強く感じた。

 

また、由麻に追いかけ回される苫人を守るため、等は彼女に自分が苫人の恋人であると嘘を付くのだけど、その伝え方に配慮があって素晴らしい。僕がなんで君の邪魔をするかわかる?と問いかけて、どうして?と返してくる彼女に対して僕のプライバシーだから話したくないし、想像を人に話したらアウティングになるから許されないんだと諭す。嘘を付くにしてもセクシャリティについてすごく慎重に気を使う等にはすごく好感が持てるな~と思う。結局由麻は何もわからずそのことを言いふらしてしまうのだけど、それがどういうことなのか理解が及ばない人もいるというやるせなさも、きちんと描写されているのがまた…。

 

2篇目の「理性の王国」は、主人公の羽瑠と、ある切っ掛けで彼と関わりを持つ來大の物語である。等と苫人も元担任として、部活の顧問として登場する。

理性的な思考を重んじ言葉を紡ぐのが得意で、他人と関わらないために"感情"がわからない羽瑠と、芸術家気質で言葉を紡ぐのがあまり得意ではなく、感情を抑えきれないタイプの來大。理性/感情で対比される二人は何もなければまず関わることがないはずだったが、來大の"感情"によって起こる事件によって羽瑠は彼と知り合う。これで來大がただ感情的な人間であれば羽瑠も気にも留めないだろうけど、來大はすごく誠実なので羽瑠も対話を許すことで話は始まる。この二人の会話では、羽瑠は知的さによって、來大は素朴さによって紡ぐ言葉が、二人の正反対の気質をよく表しているのに妙に噛み合っていて、ユーモラスなのが面白い。二人の歩み寄り(というかほぼ羽瑠の歩み寄り)が読んでいてよくわかるのだけど、高校生らしくなかった羽瑠が高校生らしく友人を得ていく様は言葉に出来ない良さがある。

最終的に來大の"感情"によって起こるいくつかの事件に、羽瑠は巻き込まれる。彼の友人として理性を活かして事件を解決に導こうとする羽瑠だけど、來大が様々な意思を持って拒んだり、逆に熱を持って受け入れたりして、羽瑠はそれに苛立ったり嬉しさを覚えていることが自然に描かれるのだけど、これってつまり彼が知らなかったはずの感情を表にしているということで、この流れをごく自然に読者にも羽瑠にも気づかせるのがすごいな、と思った。そしてこの感情が湧いてくるのは來大が"親友"だからこそのものだということも自然と気づかせる。

「理性の王国」でも等がついた嘘が未だ根強く残っており、それについて茶化す生徒たちが描かれるシーンがある。この侮辱に激怒するのは意外にも苫人を追いかけ回していた由麻であった。思ったより大事になったことで、等がワンピースを着て全校生徒の前で話をするのだけど、ここでも等は自分のセクシャリティについて真実は話したくないから話さないし、謝る必要はないから謝らないという態度を取るのが良いな~と思った。自分のためだけでなく、同様の思いを抱えている人がいるかもしれないという配慮をきちんと出来る等は真人から受け取った「自分も他人も否定しない」をきちんと実践している。

続けて等が話す暴力や侮辱はいけないけど、どうして起きてしまうのか、それは感情を言葉にできないという理由があるのだろう、だから言語化出来るようにしていきましょうという言葉は、來大の在り方にも繋がっていくし、物語として大きなメッセージでもある箇所だな、と思った。言葉にするのって本当に難しいけれど、上手く伝えられることが増えれば、解決することもあるだろうし、納得は出来なくても理解は出来ることも沢山あるということを改めて考えた。等の話にも感動した人、つまらなそうな人、否定的な人など様々な人がいるだろうという描写がされているが、様々な考えの人がいるからこそすべてわかり合うのは多分無理で、でも上手く言語化出来れば理解して互いに尊重することは出来る、ということなのかな、と考えていた。ただし、ただ言葉を上手く使うだけでは生き生きとは生きられない、そこには感情が介在するからこそ言葉で表そうとするのだということも羽瑠が感情を知っていくことで伝えているのかな、と思う。

等と苫人は謝罪をする由麻が自分の過ちについて考え続けているとは思わず、それについてすごく尊いことだと考える。誰しも間違いはあるけど彼女のように自らそれを正せる人ばかりではないと思うので、現実はそう上手くはいかないとは思うけど、(自分ももしかしたら知らないうちに過ちを犯している可能性もあるし…)みんながこのように出来たら世界は少しずつ変わるのだろうか、なんて考えてしまったりした。

「理性の王国」を読み始めたときは何故彼等が中心なのだろう、と考えたりしたのだけど、最後まで読んだら、彼等は"親友"として互いを変える存在になっていって、尚且等が「君たちは、人と違うことを恐れないんだね」と声をかけるように等と真人とは違った形でその関係を築いている。等は自分が迷子だったことを悔いてはいないけど、きっと他にも友と前に進む形はあると思っていて、その形の1つが羽瑠と來大だったのかな、と思った。

 

最後の「ワンピース」はより数年後の等の物語だが、私が考えていたことを昇華してくれた短編だった。

というのも、等は(苫人もだが)勿論真人にもらった力を糧にして前を向いて歩いていくことが出来たのだとは思うけど、これから永遠に真人に囚われていくというのはどうなんだろう…と思ったのである。等の人生は等が等として歩むべきではないかと思ったからである。この篇では真人のいない時間を生きていくことを考える等の姿が描かれていて、1つの回答を提示してくれていてスッキリしたし、良い意味で「変わった」等の姿が見られて嬉しかった。

 

感想の中でも述べてきたけど、この物語はジェンダーセクシャリティ、一人ひとりのアイデンティティについてかなり慎重に描かれていると思うのだけど、それはあくまで話の一片で、軸は等が漫画版の真人との日々を受け止め直して「自分はこうなんだ」と認められるところにある、という描き方が本当に好きだな、と思う。途中に由麻や、羽瑠・來大の物語があることで様々な人がいるということも自然に伝えながら、すべての人とわかり合うことは出来ないかもしれない、でも自分は自分である。そして、それを尊重し合うために否定ではなく理解をすることが必要なんだということを伝えてくれている物語なのかな、と思っている。それは、今の社会にとってすごく大切なメッセージであるように思う。

 

菅野先生は漫画版の原稿を書き終えた時にこのように考えたとあとがきで述べている。

「いつか古い物語だと言われることになるだろうけど、それを恐れまい」

なんて素敵な覚悟なんだろうかと思った。

まだ世界はそこまで上手くは進んでいないと思うけど、私もこの物語が古い物語になる世界がいつか来たら良いな、と思うし、そこへ向かうための1歩としてこの作品はすごくすごく大切な作品だと考えている。

 

↓物凄く丁度良いお題表示されてた

今週のお題「最近おもしろかった本」

"愛"の話ー「Club SLAZY」シリーズ感想

少し前、フォロワ~さんから未視聴分のClub SLAZYの円盤を借りて、着々と見進めていた。

SLAZYの初めの印象は「クリサマのチケ発が飛び抜けて大変そうだった作品」*1だったのだけど 笑、そのあと気になって1stと4th(とTVドラマ版)だけ飛び飛びで見て(何故そんな飛び飛びで…)作品の雰囲気や物語が好きだなぁと思っていた。改めてきちんと時系列順に見ていくと特に「この人は何故、どういう経緯があってこういう人になっていったのか」「この人はどうしてあの人に執着しているのか」が鮮明に分かってきてすごく面白かった。そして、鮮明になった部分の物語やそこに関連するキャラクターの設定や描写は、あまりにも人間くさく生き生きとしており、非常に惹かれるものがあった。

このシリーズのショーパートはある意味劇中劇みたいなもので、俳優によって演じられているキャラクターが"パフォーマとしての自分"を演じるのを、観客がCLUB SLAZYというキャバレーで直に見ている…というようなきっちりとした入れ子構造になっているので、ストーリーパートで描かれるパフォーマーの仮面を剥ぎ取られた状態の素のキャラクターとの二面性がすごく強調されていると思う。だからこそ、彼らの人間くさい感情とか葛藤とか執着とかを赤裸々に感じることが出来て、キャラクターが生き生きと動いて各々交差していく様子が伝わってくるのがこの作品の大きな魅力の1つだな、思った。

勿論設定の粗い部分もあるとは思ったけど(Finalの大変革はオーナーの意向が入っているとは思えないけど、オーナーどこへ行ってしまった?とか)、そこはテンポの良さと演者のパフォーマンス力でカバーしているので気にならず楽しめた。三浦・伊勢コンビの演出のテンポ感、大好き。

音楽とダンスがすごく素敵なのも作品の魅力をぐんと引き上げているもう1つのポイントだと思った。好きな曲は後で書くけど、単純にどの曲もお洒落でカッコよく、キャストの歌やダンスの艶っぽい魅力を感じられる。聞いてるだけで楽しいし、胸に刺さる曲もあるのですごく魅力的だな、と思う。あと、ジャジーで妖しげな曲もポップで明るい曲も、しっとりしたバラードも、華やかながらに、どこか寂しさや危うさ、おどけた雰囲気を含んでいることが多く、作品の持つ二面性(華やかなショー/人間くさい感情)の両方を感じられてすごい。特に各キャラクターの個人曲はショーらしい煌びやかなアレンジでありながら、各個人の置かれた状況や性質が入れ込まれている部分もあったりして、思わず、秀逸……と唸ってしまった。しっかり歌って踊れて演技も出来る人を上手く集めてくれてるのも説得力があってすごく良かった。(旧CLIEは独特のキャスティングに定評があったけど、ピースをはめるのが上手い印象があって、かなり信頼を置いていた所がある。)

気づいたらあっという間にSPECIAL LIVEまで見終わっていた。

 

最後まで一通り見て、私が一番好きだと思った作品はThe 2nd invitationだった。

あまりにも好きすぎて2,3週間借りてる間に2ndだけ10回くらい見た。

貸してくれたフォロワ~さんも言ってたけど、ポップでおどけた雰囲気とスレイジーの在り方や自分の進むべき道を模索して葛藤するダイナミックさが濃くなる、スレイジーど真ん中!な雰囲気に勢いづいていくのは3rd以降なのかな、という印象がある。2ndはもう少ししっとりとしていて、感情の機微が軸に据えられた繊細さの目立つ作品だと感じた。それ故に細やかな心情の揺れ動きの描写がシリーズイチだなと思っていて、心理描写が丁寧にじっくり描かれている作品が好みな自分には一番刺さった。(Another worldも他の作品に比べると大人っぽいけど、2ndみたいな繊細さよりダークな面が強いなと思う。)

三浦香さんは繊細な心理の表現がすごく上手くて、くどくないのに心の動きが伝わってきて、それが物語の軸に作用していく話の作り方をしていることが結構あると思う。2ndにもそれを感じていて、"彼女"の存在によって起こるKingの心の揺れ動きが物語の軸に作用し、Kingの心の動きを受けてOddsも行動を起こし、自分の在り方に気づいていく。Oddsの動きを受けてスレイジーでの自分の在り方を考えるとともに、傘を切っ掛けにずっと気にかけていたKingとOddsの背中を押したいと思い、行動に移すCB。そしてKingの心の動きによって物語が進んだことで大切な姉を失い復讐に来るも、Kingの様子を見て姉のためになるのは彼の歌を届けることだと気づく、Peeps。すべての真実を知り、もう戻るまいと思っていたスレイジーで彼女のために歌を歌うことにするKing。誰かの心の動きを受けて、また他のキャラクターの心が動いて、物語が進んでいく…という連鎖がすごく繊細で美しくて、心に沁みるなぁと思った。Bloomは傍観者の立場だけど、しっかり彼らの思いを汲み取ってKingにステージを明け渡すんだよね。

OddsがKingへ向ける"絶対に勝てない"というやりきれなさを抱きながらも、嫌いになんてなれなず、彼のことを大切に思う気持ちも本当に愛しいな~と思う。Odds、4thやドラマで見たときは憎めない悪役!という感じだったけど、2nd見たらもう、素直になれない仲間思いな不器用人すぎて、大好きになってしまった。そして彼の立ち振舞いが後輩のCBの立ち振舞いに繋がっていくんだな~と思った。

あと私は傘を使った表現が好きなので、雨や傘が効果的に使用されているのも好きなポイントの1つ。

私がシリーズを通して一番好きな曲はこの2ndの終盤で歌われる「Peeps Gospel」で、すごく切実に"彼女"に向けられ、届かない思いを歌い続ける苦しい歌詞なのに、あまりにも優しい曲調なので、Peeps、そしてKingの彼女への溢れる愛が沁みるように伝わってくる所がすごく好き。聞いていてすごく胸が切なくなる。

僕はここにいるよ 今も歌い続けてる

あなたが聞こえる様に いつまでも

Come back home.

この部分の歌詞は特に見えない"彼女"に歌が届くと信じている様子が感じられてすごく切ないし、彼女に届くように優しくも力強く歌われるのがすごく好きだな~と思う。Peepsが姉の形見の傘を抱きしめながら素朴な歌声で歌うのも、Kingが泣き崩れながら歌うのも、どちらも"彼女"への思いが溢れているのが感じられて好き。

最後にKingが"彼女"へ向けて歌う「サヨナラ」はシリーズを通して様々な場面で歌われているけれど、同じ曲なのに歌われる場面によって全く違う意味を持ち、どれもその場面のために誂えられたようにぴったりな雰囲気なのがすごい。この場面だと、"彼女"へ溢れる愛を歌に乗せて、あの日に言えなかった別れを告げる…という2ndのフィナーレにぴったりな曲になっている。(私は最遊記歌劇伝というシリーズが大好きなのだけど、そこでも三浦香さんは同じ曲を別の場面で別の人物に歌わせて違う意味を持たせる、という演出を良く用いていて、何度もそれで泣かされているので、得意分野なんだな~と思う。笑)

「Peeps Gospel」も4thで再度歌われるのだけど、そこではQがBloomに伝えたい思いを表すように感じられて、また違った意味を持つのが面白い。歌い始めはOddsが歌っているのだけど、Oddsバージョンもたまらなく良い。

スレイジーは究極、「愛の話」だと思っていて、2ndは特にそれが顕著に軸になっており、物語が展開していく切っ掛けがすべて何かしらの愛から始まっているのではないかと考えている。KingとPeepsが"彼女"に向けるのは一番ストレートな愛だし、OddsがKingに向けているのも愛だし、憎まれ口叩きながらもCBが二人に向けているのもやっぱり愛。愛には色々な形や表し方があるけれど、そのすべてに人を良い意味でも悪い意味でも変える力があるのだな、と改めて考えた作品だったな、と思う。(Another worldでV.PがWillに向ける愛なんかはその両面が混ざってしまった結果が描かれてるなと思った。)

スレイジーには"愛"を歌う曲が沢山あるけど、特にストレートに愛をテーマにしているのが「Patient of love」「あなたは知らない」だと思う。

「Patient of love」は支配人Zsの曲で、2ndでもKingの気持ちが揺れ動くターンで彼がそっと優しく歌う。

これはLove!Love !胸が叫んでる

ド直球の「愛」の歌詞なんだけど、優しく包み込むような曲調と歌い方で、諭すように愛を教えるような雰囲気があって、このシリーズに欠かせないピースだと思う。FinalでDooBopがZsのことを「あの人は愛しかない人だから」と表現するのもすごく良い。

「あなたは知らない」はジャジーで妖しげな雰囲気のあるBloomの持ち曲。自分の愛に気付かない女性に向けた曲、と見せかけて、気付かれなくて良いからずっと愛を向けていたいというDeepに(そして恐らくQにも)向けた彼なりの愛の歌なのだと思う。

愛は誰も見えないから 目を閉じてても同じだろう
愛は盲目と言うけど 見ようとしてないだけだろう

愛の本質をつく歌詞だと思うし、Bloomらしい愛の形も垣間見える素敵な楽曲だと思う。

このように楽曲においても「愛」が軸になっていることがよく分かるな、と思う。

 

2ndが好きすぎてその話ばかりしてしまったが、勿論他の作品もそれぞれ持ち味があり大好きである。ただ、全てを語るととんでもない長さになってしまうので、あと2点だけ特に好きな点を書き留めておこうかな、と思う。

 

1点目はQの存在である。

2ndで初登場した彼は、ステージの裏方全般を行うMysticという立ち場であり、パフォーマーたちのお世話係でもある。様々な業務をそつなくこなし、丁寧で優しい口調でパフォーマーたちの話を聞く存在だが、度々鋭い意見を突き付けることもある。また、オーナーと通じており、スレイジーの裏事情を知っている様子であったりと得体の知れない印象を受けるキャラクターである。それ故に初めて見た時は、感情表現だらけのキャラクターの中ではかなり異質に感じたし、すごく人間味が薄いように思った。(実際初期ではアンドロイドなのではないか説も出ていたと聞いた。)

しかし回が進むごとにもしかすると「スレイジーの人々を一番好きで、一番大事に思っているのは彼なのでは?」と思わせるような部分が見えてくる。

まず4thでMysticを去っていったハチ(Bloom)に対しての接し方が随分感情的なのを感じておや…?と思った。そして、Another worldでスレイジーに戻ってきたActが再びスレイジーを後にしようとする際に彼に対してQが「私は自分の選択が常に最良だと思っているので、あなたを止めることはしません。でも、私は、あなたに行ってほしくないと思っている」という旨のことを告げるのだけど、その時の表情を見てすごく驚いたのを覚えている。あまりにも人間くさく感情を隠せない表情だったから。うわ~Qちゃんもこんなに人間らしいキャラクターだったんだな…と思った。

そしてFinalで描かれる8との別れのシーン、泣き顔を隠すためにこだわりを捨てて帽子を被った日、8とJr.を思いながらもあまりにも切なくてやるせない涙に、普段は絶対に見せない姿に、胸がぎゅっと切なくなった。それでもBloomを大切に思い、彼の背中を押すのも堪らないな~と思った。Finalではスレイジーとその人々を救うためにTORIへ行きDooBopをけしかけるシーンもあり、ただ任されたことをするだけの裏方としてではなく、自分の意思で道を切り開いていく様を見せてくれた。彼も愛に溢れた人だったんだな、と思った。このQちゃんのギャップもまた、シリーズの生き生きとした人間らしい物語の魅力を高めていて、すごく好きな点である。

8(Bloom)やJr.(Deep)との関係性も、すごく切なくも愛があって見ていて心が暖かくなる。4,5は彼らが主軸の物語といっても過言ではないと思うし。

 

2点目の好きな点は、「過去との決着」が1つのテーマとなっていて、キャラクターたちがそれぞれ違った形で決着をつけていく様子が描かれているように思う点である。

例えばEndはスレイジーに来て失恋を乗り越えて、ラストに向かうにつれて自分に自信を持ってステージに立てるように変わっていく。Bloomは自分の存在価値が信じられず、一度Jr.との関係性でそれを感じたもののまた彼が手を離れていってしまったと感じて落ち込んでしまうが、最終的にはスレイジーのみんなが自分を必要としてくれているんだと自分の存在価値を肯定できるようになる。CBはその優しさ・弱さ故に長い下積みを経てもトップに立てないコンプレックスがあったけど、その優しさや弱さを自分の強みとして認めていく…というような。上で書いた2ndのKingもまさに"彼女"への思いを歌うことで、過去の自分を清算していると思う。(Peepsもかな)

この"変わっていく"過程が丁寧に描かれているので、キャラクターに奥行きが感じられるのがすごく好きだな、と思った。終わった物語ではあるけれど、その枠を飛び越えて彼らには未来があるし、今はこんな風に生きてるのではないか、と考えさせてくれるというか。一番初めに書いた"人間くささ"の話にもつながってくるけど、そういうのがあまりにも好みなんだろうな…と自分で思う。

 

余談だけど、2ndを見た後に3rdを見た時になんか話の造りとか雰囲気が2ndまでと全然違う!?と思ったんだけど、脚本が伊勢さんだったのでなるほどそれで…!と思った。ワクワクするダイナミックな流れはあったけど、心理描写はそこまで…というのが3rdの印象で、4thは心理描写がまた少し繊細な感じが増えたので、やっぱりその辺りの色は三浦香さんのものである部分が大きいんだろうな…と感じたりした。

この界隈の舞台って感情の機微を据えて話を書く人ってそこまで多くはないと思ってるんだけど、それってこれだけ受け手が女性の界隈でありながら女性の作り手が少ないのもあるだろうなぁと思ってしまった。

勿論男性の脚本・演出家の方でも繊細な表現をされる方もいるし、ダイナミックな表現が得意な女性の方もいらっしゃると思うから、あくまで女性の方が得意な方が多い傾向にあるように思える、という話ではある。性別で作品に対する感性や傾向の話をするのはジェンダー論齧ってる身からするとあまり好ましいことではないとは思うのだけど、この社会を生きている時点で生き方や感じ方に(本人が望まぬ場合も含め)違いがあって、それが作品に表出するのは大いにあることなので、すべて平行に考えることは難しいかな、という思いもあり…。

まあ単純に私は繊細な表現が大好きなので、男女問わずそういう表現が得意な方がもっと増えたら嬉しいな~と思っている、というのが結局のところではある。

 

スレイジーはシリーズがそれなりにあるのでなかなか人に勧めづらい部分はあるのだけど、もし気になったら是非触れてみてくれると嬉しいです。

 

追記

愛の歌の話のところで「愛は幻」のこと書き忘れた…と気付いた。

君はまだ知らない
赤い糸も 永久の愛も
ただのおとぎ話

愛はない どこにも
信じるものを餌にする
monster

こちらはEndが初演で歌う曲なんだけど、正に失恋してやって来た男の歌、という歌詞。(Actも一緒に歌ってる)悪い意味で愛に変えられてしまった人の愛への失望という感じで、曲調も重く暗く、悲しげな雰囲気である。(暗い歌大好きなのですごく好きだけど)

そんなEndもシリーズを通して自分に自信を持てるようになり、終盤のショーでは「もしも…」を歌う。

もし 時を戻せるなら

君のために変わるから

(…)

戻らぬ日々すらきっと
君は抱きしめるだろ
目覚めぬ夢ならずっと
彼女を愛しただろう

うじうじしてたEndが過去を振り返りつつも堂々と「愛」を歌うことが出来るようになる、その成長が良いな~、ととても思う。

*1:私が行ったトークイベントの作品は全然争奪戦ではなかったのだけど、スレイジーだけめちゃめちゃ争奪戦だったと聞いてすご!と思った記憶。笑 確か2017年のクリサマです。

文学フリマ東京35に出展予定です

この前の記事でうっすらと触れましたが、

11月20日開催予定の文学フリマ東京35(第35回文学フリマ東京)へ

ささやかな備忘録 出張版として出展予定です。

 

だいぶ前に制作を告知していた、「量産型オタク」「量産型ヲタク」などとして使用されている「量産型」という言葉の変遷と、現在その言葉がどのようにファン・カルチャーやファッションで用いられているのか・どのようにそれらに影響しているのかについてのエッセイ本をメインで頒布予定です。コロナ禍のあれこれやスケジュールの都合で告知してから2年も経ってしまい、大分時間が空いてしまったけど、リアルイベントでの頒布を行ってみたいという気持ちがあったので今回申込みをしました。

ポップ・カルチャーの流れというのは本当に早いもので、「量産型オタク」という言葉の持つ意味だけですら2年前と少々様相が変わっている部分などもあるかと思います。それも踏まえて情報をアップデートしながら執筆したいなぁと考えています。(そのため内容が上の記事の予定から大きく変更となる可能性もあります。)

 

需要があるのか謎ですが、イベント後には自家通販も予定しています。

前に楽しみにしているとメッセージをくださった方など、大変お待たせしてしまいすみません。2年も経っているともう見ていない可能性もかなり高いかと思いますが、もしまだご興味があれば是非。

 

また、この本以外にこの前更新した記事で触れた「プリパラ」に関する考察本も余裕があれば作りたいなと考えています。(余裕があれば)

当日はまさかの推しの舞台の千秋楽と被ったため、夕方は早めに切り上げる予定なので、もしご希望の場合は早めにブースへお越しいただくことをおすすめします…。笑

弱小ブログのため需要はないかとは思っていますが、文フリにはいつかは出展してみたいと考えていたので、とても楽しみです。

 

詳細はまた近くなりましたらカタログとともにご案内します。

よろしくお願いいたします!

「プリパラ」完走ーどんなわたしでも、わたしは「わたし」!というメッセージ

先日、TOKYO MXの無印「プリパラ」再放送が最終回を迎えた。

再放送が始まった当初、丁度無印プリパラをのんびり履修したいなと思っていた私は、これはなんと絶好のタイミングと思い毎週放送を見続け、ついに140話完走した。

ある程度のキャラクターは何となく認識した状態で見始めたが、思っていた以上に個性豊かで人間味に溢れており、ただ可愛いだけでなく自分をしっかり持ったキャラクターばかりで、ストーリーも飛び道具的な監督節*1や脚本家節を効かせつつも彼女ら/彼らの個性や思想をしっかりと汲み取りながら成長や目標達成を描ききっており、飽きることなく見続けられた。

 

再放送を見始めて少し経った頃、私はこんな記事を書いている。

appleringo.hatenablog.com

「プリパラ」を見始め、キャラクターが〈なりたい自分〉像をすんなりと受け入れ、「なれる」ことを見込んだ上で、そこに近づくために努力するという〈自己肯定感の高さ〉の表現がすごく印象的で、過去に見ていた同じく〈なりたい自分になること〉がテーマの作品である「しゅごキャラ!」の自己肯定感の表現のスタートラインの差に驚いたことを書いた記事である。

 

この〈自己肯定〉〈なりたい自分になること〉は、1つのテーマとして各々のキャラクターの成長と絡めて最後まで一貫して描かれ続けており、ストーリーがかなり多方向に展開しているのに作品の根底の部分がブレていないのが本作の優れた点のひとつだと感じた。

しかし最後まで作品を視聴してみて、私が上の記事を書いた時点で考えていた以上に〈自己肯定〉のあり方について多面的な描写をもって明確に示唆・強調されていると感じた。また、わたしが「わたし」で有り続けるために〈自己肯定〉以外にも必要なことについても、一つの大きなテーマとして強く表現されていることを改めて感じたので、今回の記事ではそれらについて、作品の感想も含めてざっと書き留めておきたいと思う。

 

プリパラを見始めた頃は、らぁらが自分の大声を肯定する、そふぃがレッドフラッシュに頼らずに素の自分で活動しようと努力する等の描写を見て、そのままの自分を肯定し、「なりたい自分」も受け入れるという方向性での〈自己肯定〉が描かれている印象を受けていた。また、自己肯定だけでなく、周りの仲間たちにもそのままの自分を受け入れてもらうという意味での肯定も描かれているように感じていた。(作品を履修する以前に読んだ論評の影響もあったかもしれない。)

しかし、作品を見続けるうちに、この作品の根底にあるのはそういった意味の自己肯定だけではないな、ということに気がついた。特に強くそれを感じたのは32話「みれぃ、ぷりやめるってよ」であった。

ファルルに勝つためにパワーアップを目論み「ありのまま」になろうとするみれぃ。彼女は「ありのまま」というのは今のそのままの自分を見せることだと考えて、「作ったキャラクター」であるプリパラの「みれぃ」、そして語尾の「ぷり」を捨てようとする。それに対して彼女に憧れる雨宮は、最初は作ったキャラクターだったかもしれないが、それも含めてもう全て自分自信であること、どんなあなたであってもそれはもう「あなた」なのだと力説する。それを受けてみれぃは「ぷりのままで」夢に挑戦することを宣言する。

この流れを見て、この作品で描かれている〈自己肯定〉はそのままの自分を肯定するということだけではなく、「こんな自分も、あんな自分でも、自分なんだ!どんなわたしでもわたしは「わたし」!」ということも示しているのだな、と感じた。というか、そちらがメインのテーマであり、視聴者へのメッセージの1つであるように思った。そして、〈なりたい自分になること〉というテーマも、「どんなわたしでも「わたし」だから、どんなわたしにでもなれるんだ!」というメッセージを示しているように感じた。

そういえばそふぃも基本的には素の自分のキャラで活動しつつ、「クールなキャラも久しぶりに見たい」と親衛隊に言われて承諾してまた「クールなそふぃ」ライブをする場面があり、これも「どんなわたしも、「わたし」!」を示唆しているな、と考えた。

 

そしてその後、それらのテーマについてまた違った切り口から明確に描写されているな、と感じたのは74話「紫京院ひびきの華麗なる日常」であった。

73話でひびきが実は女性であることが明かし、世間はそのニュースで持ちきり。レオナはそんなひびきが気になり、ドロシー共に彼女が出演する舞台の稽古場へ忍び込み、何故女性であるのに男性の姿をしているのか問いかける。丁度ひびきの相手役の女優が遅れていたので、彼女はレオナに稽古の代役をしてくれるなら答えると伝える。稽古ではひびきは騎士、レオナは姫を演じ、レオナの「なぜ女なのに、そのような姿を?」を受けてひびきは台本にはない「なぜかって? 所詮、この世は、ウソとまやかし。どこに問題がある?」と答える。そして「キミは?」と問いかけるひびきに対して、レオナは「私は、あるがままです!」と叫ぶ。終わったあとのレオナはひびきと自分は似てるところもあるけど、違うところもあるようだと気づき、心が晴れた面持ちでライブへの意気込みをドロシーに語る。74話はそんなストーリーである。

この話は一見「嘘まやかしに満ちた世界を嫌い、演じることが日常」であるひびきの虚構性と「あるがまま」そのままの自分を受け入れるレオナの二項対立が描かれているように見えて、実際そんなに単純な話ではないのかな、と思った。

「あるがまま」というのは確かに「今のまま、そのまま」という意味であるが、プリパラでの「あるがまま」はやはりただそのままの自分を肯定することというより、「どんなわたしも、「わたし」!」という方向性のように思える。つまり、レオナは男の子だけど女の子の格好をしている今の姿の方が自然な自分だからそれを肯定する、ということではなくて、レオナはどんなレオナでもレオナだから、女の子の格好をしているレオナもレオナそのものなんだということを肯定するということである。

「わたしはわたし」を軸にすると、それではひびきの虚構性についてもすべてひっくるめて「ひびきそのもの」と言えるのかという話になるが、この時点の彼女は「すべてが嘘まやかし」で「演じることが日常」と述べており、後々語られる目的も含めそもそもそこに存在する"ひびき"という存在を「わたし」として認識していないような印象を受ける。そこにいるのは"紫京院ひびきが演じているなにか"であり、「どんなわたしでもわたしはわたし」という方程式が成り立たないと考えられる。だからひびきの思考に触れたレオナは「似てると思ったけど、違うところもあるみたい」と気がついたのだと思う。

そして、この時点では「わたし」を認識できていないひびきも、敗北を認めらぁらたちと和解をした後には、ふわりやファルルとの交流もあり人間らしさのある描写が増える。ややヒールな性格も男性的な振る舞いも"ひびきらしさ"として受け入れられ、ひびき自身もある種の開き直りもあり、そういった振る舞いを自分らしいものとして行っている様子が伺える。こうして「わたし」を認めたことでひびきも「どんなわたしでも「わたし」!」というテーマに漏れない存在になっていると考えられる。

 

こうしてプリパラにおいて「どんなわたしでも、わたしは「わたし」!」というメッセージは作品の根底に流れるテーマとして存在していると考えられるが、そもそもプリパラという場所自体がそれを叶えられる装置になっていると考えられる。

プリパラは、ただアイドルになれるというだけではなく、どんな姿にもなれて、どんなキャラにもなれて、どんなことを考えていても「わたし」として存在しているなら「わたし」なんだという自己肯定が出来る場所だと感じる。そして、その「わたし」の歌を世界中の「みんな」が待ってくれていて、思い切り届けることが「すべての女の子」に許されている場所でもある。*2誰だって大丈夫。あなたを待っている人が必ずいる。自分だけでなく"誰か"が必ずそれを肯定してくれる(=否定しない)、そういった存在がいることの重要性も共に描かれているように思う。その存在こそが、作中のもう一つの大きなテーマである「トモダチ」なのではないかと思う。

(プリパラという場所とトモダチという存在の関係については、87話「語尾の果て」で強く触れられている。どんなに「なりたい自分」になれたとしても「トモダチ」のいないプリパラは"乾いて冷たくて寂しい"*3場所になってしまう。)

こうした自己肯定とトモダチの関係を顕著に感じたのは真中のんの存在である。のんのトライアングルとしての活動は「わたしは「わたし」!」的だけど、アイドルとしては、やりようによっては独りよがりになってしまう危うさもあることを描き出している。それを克服したのがノンシュガーとしての姿なのかな、と思う。

 

こうした「わたしは「わたし」!」というテーマを全面に押し出して描き切るという手もあると思うけど、それだと押し付けがましさやナルシシスム的な印象が邪魔してしまう可能性があると思う。そこをコミカルな描写とともにプリパラという装置を用いて、どんな自分でも自分であり、どんな自分にもなれること(=自己肯定)とともにそれを認めてくれる存在(=トモダチ)の重要性を同時に描くことで、作品の根底のテーマとしてそれを自然に示すのがプリパラの特徴であり、魅力なのではないかと筆者は感じている。

以上が、プリパラを完走して考えたこと、感じたことである。

 

あとはもうただ個人的な感想であるが、私はプリパラを見進めるうちに黒須あろまちゃんが一番好きなキャラクターになった。初めはらぁらたちの邪魔をするちょっと嫌な悪役という印象であったが、次第に明かされる自分のキャラ作りは徹底しているので絶対に妥協しないというストイックさや、みかんのことをすごく大切に思い、時に彼女のために奔走する優しさを見て、いたずらっ子だけど努力家で友達思いであるというギャップに惹かれ、すごく好きになった。

そのため、個人的に特に思い入れのある話は104話「LOVE!デビル色!魔力があればなんでもデビル!」である。みかんとの約束を果たすために、デザイナーの夢を叶えるために、新ブランドに応募しようとするもミスで作品を提出出来なかったあろま。泣きながら寝込んだ彼女が目覚めると隣に寄り添って眠っているみかんとガァルルの姿が。それを見て、二人のために最高のデザインをしようと再起し、3人の個性を込めたコーデでライブをし、結果的に彼女のデザインは新ブランドとして認められる。自分らしく、そして、大事な「トモダチ」のために、夢を叶えた彼女を見て思わず泣いてしまうなどした。彼女もまたプリパラらしい存在の一人だな、と思う。(その後の106話もガァルマゲドン好きとしては胸が熱くなる展開であった。)

 

現在はアイドルタイムプリパラの再放送が始まっているので、これもまた毎週楽しく見ている。私が直接興味を持った切っ掛けであるWITHの登場回も順を追って見られるのが楽しみである。*4

そして、若干話が飛んでしまうのは承知で新作の「アイドルランドプリパラ」も視聴中である。こちらは、アプリゲームが主軸ということで、対象年齢が上がるのを「エラーで人々がプリパラを忘れてしまった世界で」「かつてプリパラアイドルだった女の子を主役にして、プリパラを思い出してもらって再度アイドルになってもらう」という設定で補完するのが上手いな~と思った。(「プリパラを忘れてしまった、かつてプリパラアイドルだった女の子」は「小さい頃プリパラが好きだったけど、成長して今は忘れてしまったこの世界の女の子たち」に重なるわけで)

3話の先行上映をすっかり忘れており見逃してしまったのもあり、実は折角なので先日の池袋HUMAXシネマズで開催されたアドパラ上映会に行ってきた。あまりちゃんの歌と衣装がすごく好きなので、カオティック・ハリケーンを映画館の大画面で見られたのは本当に嬉しかったし、マリオのパフォーマンスがカッコ良すぎて痺れてしまった。ロックだ…。

そして森脇監督と大庭さんの、「プリパラの世界では不思議なことも不思議とは思わない。気づいたらすべて受け入れている。」という言葉を聞き、こういう思想が「どんなわたしでもわたしは「わたし」!」そしてその「わたしを受け入れてくれる誰か(=トモダチ)が必ずいる!」というテーマを生んでいるのだな、と改めて思ったりもした。

 

今回他にも色々書きたいことがあったが長くなってしまって端折った部分もあり、

今度別の記事で告知予定だけれど11月の第35回文学フリマ東京に出展を予定しているので、(メインで頒布予定なのは他の本だけど)可能であれば加筆修正したプリパラ感想考察本を出すかもしれないです。また改めて告知します。

*1:筆者は「おねがいマイメロディ」が世代である。

*2:みれぃが87話で記憶を取り戻したときにらぁらにまっすぐに伝える言葉が「みんなはアイドルの歌を待っているぷり。世界中に向かって届くように、思いっ切り歌うぷり! ここでは、すべての女の子に、それが許されているぷり!」である。

*3:唯一「トモダチ」を覚えていたらぁらが「トモダチ」を忘れたみんなのことを見て言った言葉の1つ。

*4:登場回だけ数話見たことがあるが、やはり通して見たいので